【世界一周376〜384日目】2024.4.22〜4.30 ブラジル 弓場農場
気温:22度〜36度くらい
歩数:1日13,000歩前後
今回の記事
- ブラジルにある日本「弓場農場」とは。
弓場農場でお世話になった10日間。
”いただきます”という言葉の本当の意味がわかった。
世界一周中に様々な情景を見て来たけれど、弓場農場での暮らしはそれらに匹敵するくらい美しく、優しさと感謝の心に溢れていた。
そして自分の生活力の無さを実感し、全てが学びとなる大変貴重な経験をさせていただいた。
我々を暖かく受け入れてくれた弓場農場の方々に心から感謝。
本当にありがとうございました。
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弓場農場とは
以前書いたものの再掲になるが我々がお世話になった弓場農場について簡単にご紹介。
ここは日系移民の方達が暮らすブラジルのサンパウロ州にある共同体。
1908年にブラジルへの移民が始まり多くの日本人が仕事を求めて海を渡った。
そして1926年に弓場勇さんという日本人が一家10名でブラジルに移民として渡ったことが弓場の始まり。
その後複数の青年達が移民として訪れ、「ブラジルの処女地に新しい文化の創造を」の理想を掲げ、数名の仲間と第一アリアンサという地区に40ヘクタールの土地を購入して農場の建設にとりかかる。
来るものは拒まず去る者は追わず。
仲間たちと共に作物の収穫に加え、 一時は22万羽の南米最大の養鶏場を作るまで発展したが、第二次世界大戦が始まってしまう。
そして1956年に倒産。
当時200名いた仲間達の半数を引き連れ現在の土地に移動、再建に取り掛かり、今でもなお60名ほどの日系移民の方達が暮らしている。
弓場農場が他の移住地と大きく異なるのが共同体を成していること。
共同体とは複数の世帯からなる会社のようなもので、お財布が一つなのである。
皆が農場のために働き共に飯を食べ、生きていくのだ。
村人たちは給料などは得られず、生きるのために自給自足の生活を行っているという非常に珍しい農場なのである。
地球の裏側でそんな暮らしをしている日本人たちがいて、旅行者を受け入れてくれている。
”多様な生き方の一つ”という点で貴重な経験と学びが得られると思い1週間ほど一緒に暮らさせてもらうことにしたのだ。
燃えるような朝焼けと共に目を覚まして農業や食品加工などの作業を行う。
食堂に集まって皆で同じ釜の飯を食べる。
1日の疲れを浴場の裸の付き合いで洗い流す。
それら一つ一つの出来事全てが新鮮で楽しかった。
古き良き、本当にそんな言葉が似合う素敵な農場とエネルギーに満ち溢れた人々だった。
弓場農場での暮らし
弓場農場ではほぼ自給自足の生活を行っている。
畑で作物を育て、採れた野菜を使って60人分の食事を作り、
皆が食堂に集まって食べる。
食べる前には必ず黙祷を行い、感謝することを忘れない。
食事は大皿に提供されるのでビュッフェスタイルで早い者勝ちだ。
新鮮な野菜を使い丁寧に調理された食事はどれも感動するほど美味しかった。
多く採れた野菜や果物は敷地内の直売所での販売のほか、近くのスーパーに卸していた。
敷地内には牛も鳥も豚もいるが食用のために殺すのは今ではお祝いのタイミングなどに限られているようだった。
我々もその貴重な瞬間を見ることができた。
我々は多くの命をいただいている。
施設には電気もガスもあるが、太陽光を使った自然エネルギーを用いたり、今も薪を使って火を起こしてもいる。
共同浴場の湯も薪で温めていると聞いた。
農場には手作りされた道具やいつから使ってるんだろう?と思うような道具が多く使われていた。
長く大切に使っているのが伝わって来た。
弓場には約20世帯、60名ほどが暮らしており、子供も赤子もいる。
決して母親1人で育てず、皆で協力して一緒に育てていた。
子供は宝。
そんな言葉がぴったりなくらい子供の周りには笑顔が溢れていた。
まぁたまには怒られていたけど、それは元気ゆえだろう。
とにかく我々が日本で暮らしていた時とは何もかもが逆だった。
消費社会に身を置いて日々お金のために働いていた。
スーパーに行けば何でも売っている。
パック詰めされた肉に感謝の気持ちを抱くことはない。
いつも食べてるズッキーニがどうやって育つのかも、どれだけ手間をかけて育てられたのかも知らなかった。
ビルの隙間じゃわからないことだらけだった。
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弓場農場でのお仕事
ある時農場に住む女の子からこんなことを言われた。
あんた達はさ、弓場で暮らしてる人と同じ経験がしたくてここに来たわけでしょ。だったらやる時はやるし、休む時は休まなきゃダメだよ。
そう、見に来たわけじゃ無い。同じように暮らしてみたくてここに来た。
ここでは誰もが村のために日々働いている。
我々も同じようにやれることをやらなければいけない。
決してお客さんでは無いのだ。
ざっくりと1日はこんな感じのスケジュールになっている。
- 6時に朝食
- 7時半に午前中の作業開始
- 11時に昼食
- 1時半に午後の作業開始
- 18時15分に夕食
- 19時以降に風呂
- 20時過ぎに洗濯
- 23時ごろ就寝
月曜〜土曜はこんな感じ。
日曜は農作業はお休みだが食事係や洗濯、食器洗い当番などは働かれている。
食品加工も忙しいタイミングだったのでAzuはお手伝いさせてもらった。
日曜日だけ手作りのおやつタイムあり!
夕食後にバレエや合唱、俳句作りなどの文化活動も行われていた。
作業については各々担当が決まっているが、我々は固定の仕事が無いので日々やれることをやって過ごした。
例えば、
農作業
弓場農場というくらいだからメインは農作業だ。
弓場では多様な作物を育てている。
我々はズッキーニの苗を植えたり、雑草を抜くといった畑仕事もあれば、グァバの実を収穫するという作業などがあった。
変わったものだとシイタケ栽培に使うマンゴーの木を切りに行くといったほぼ林業の作業もあった。
30度を超える強い日差しの中の農作業は本当にしんどかった。
生産者の方の苦労がわかると野菜がとても美味しく感じるようなった。
自然の恵みをいただいて生きているということもわかる。
いただきます。
我々は感謝の気持ちを持ってその自然の恵みを食べなければならない。
勝手に野菜は生えてこない。
今我々の食卓に並んでいる野菜や果物は誰かが丹精込めて育てられたものなのだ。
食品加工
弓場で採れた新鮮な自然の恵みを使って様々な加工品が作られていた。
食べる辣油や甘味噌、ハナウメ(ローゼル)のジャム、豆腐などなど。
え?こんなものまで?
と、思えるものまで作っている。
Azuはハナウメ(ローゼル)の収穫、皮剥き、ジャム作り、封入。
と言った最初から最後まで経験させてもらった。(mosariは皮剥き以降)
他にも食べる辣油に使う玉ねぎとにんにくの処理をひたすら行ったり。
まともに包丁を握ったことのないmosariも次々と形を変えて加工品になる様を見ることができて大変勉強になった。
何もなかったもん。自分たちで作るしかなかったんよ。
そうお母さんたちは笑いながら言っていた。
でも当時は笑えないくらい大変だったんだろうと容易に想像がつく。
いや、想像以上に大変だったことだろう。
昔ながらの知恵を脈々と受け継ぎ、次世代に繋ぐ。
時には新しいものに挑戦する。
創意の心とものづくりの楽しさを教えてもらった。
教育
Toshikoさんは日本語学校で教師を行っている。
我々も日本語学校で使う道具作りや日本語学校で面接の練習役などをさせていただいた。
月に1回行っている料理教室の材料を切るといった作業もあった。
日系も3世にもなると日本語で十分に喋ることができない子が多くなる。
4ヶ国語喋れる大人だって日本語は難しいと誰もが言う。
それを子供達に限られた時間で教えるのは本当に難しいと感じた。
でもそれでも教えてやるんだと、長野県から1人ブラジルに来て日本語を教えている赤羽先生にも出会った。
彼もポルトガル語を覚えて一生懸命親身になって教えていた。
Toshikoさんと2人でどうすれば子供達が興味を持って取り組んでもらえるか話している姿は情熱を感じずにはいられなかった。
日本の文化や言語に興味を持ってもらえるように工夫しながら教えている姿は胸にグッと来るものがあった。
ただ日本語を詰め込むだけが教育ではないのだ。
子供達の未来に繋がるすごく意義のある仕事だと思った。
これらはほんの一部だが農作業に留まらず多くの経験をさせていただき、なにもかもが新鮮で学びの日々だった。
次回は我々が日々どのように過ごしていたか日常編をアップしますのでお楽しみに。
弓場農場で得たもの
今の日本は物に溢れている。
何だって買える、お金さえ払えば。
何でも手に入るのは便利で良いことだ。
でも何かを消費するために働くのが本当にあるべき姿なのだろうか。
僕はもともとウルグアイの元大統領であるホセ・ムヒカ氏のスピーチに感銘を受けた1人だ。
彼は世界で最も貧しい大統領と呼ばれていた。
2012年にブラジルで行われたリオ会議で彼がスピーチした内容は多くの日本人が聞いた方がいい内容だ。
大量消費社会による欲望の先に幸せがあるのか?
人は消費するために生間れて来たのではなく、幸せになるためにいるんだ。と、スピーチする姿は誰もが何か感じるはずだ。
そんな彼が目指す形のひとつが弓場の暮らしなのではないだろうか?
弓場には生きるために必要なものが全部ある。
- 豊かな自然の恵み
- 無ければ手作りし、大切に修理しながら使い続ける姿勢
- 感謝の気持ち
実は生きるということ自体はこの3つさえあればいいのかもしれない。
すごくシンプルなはずなのに、自ら複雑にしてしまっていたのかもしれないと弓場で暮らすことで気付かされた。
生きるのに不可欠な食べ物を自給し、必要なものを手作りして、長く愛する。
そして全てに感謝の気持ちを持って接す。
そうすれば相手もそれに応えてくれ、助け合いの輪が広がっていく。
そこには人種も言語も関係ない。
生きるために協力し、笑い合い、共に食事をしてお互いを労っていた。
世界はこんなにも美しかったのだ。
我々は日本で暮らしていた時にアパートを借りていたが、隣の家の住人の名前がかろうじてわかるくらいだ。
2軒先の名前はもう知らない。
そんな寂しい世界で暮らしていた。
そこそこ幸せなつもりだったけど、年を重ねるに連れて何かが噛み合っていない、そう感じながら生きていた。
でもそれが何かはわからなかった。
毎日を生きるので精一杯でちゃんと考える時間も無かったし、これが”当たり前”だと思っていた。
当然弓場での暮らしをそのまま日本で実践することは難しい。
でもこの3つの価値観を持って生きればきっと心豊かに暮らすことができるんじゃないだろうか。
金銭的な豊かさと幸福度は必ずしも比例しない。
それはフィリピンやアフリカの陽気な人々を見ればよくわかる。
みんなボロボロのタンクトップを着てあばら屋に住んでいながらも笑い合い、お金も無いのに一緒に飲もうと奢ってくれる。
心が豊かなのだ。
もちろんこれは性善説でもあり、いいところだけを見ているに過ぎない。
お金が無いことで強盗するしか無い世界に住む人々がいるのも事実だ。
それでも我々は心豊かに生きていきたいと思う。
たった1週間ちょっとの滞在だけど、本当に多くのものを得ることができた。
今、生きるのに何かつまづいていたり、悩んでいたりしたら弓場農場に訪れてみては良いだろうか?
その時あなたはお客様では無い、弓場の一員になる。
その気持ちを持って誠心誠意飛び込んでみれば、弓場の人は暖かく出迎えてくれる。
そうすれば生きるために必要な何かが見つかると思う。
中にはこの弓場の暮らしに共感し、弓場に移住した一世の方もいる。
もちろん共同体の暮らしはいいところだけでなく様々な苦労もあるだろう。
でも、そうやって共に歩んでいく人が今もなおいることも事実なのだ。
弓場農場の益々の発展を願わんばかりだ。
最後に改めて弓場農場の方々、本当にありがとうございました。
一生忘れられない経験ができました。
弓場農場に興味がある方はこちらから連絡してみてください。
https://brasil-ya.com/yuba/index.html
文面だけではなかなか伝わらないと思うので、弓場での日常が気になる方はInstagramのストーリーをチェックしてみてください。
フォローするとazuとmosariが喜びます。
フォローといいね、コメントお気軽に。
https://instagram.com/jgclife.globe_trotting
ちょうど長野県の番組局が弓場を取材した時の動画が公開されているので、村全体の雰囲気なんかはこちらの動画も参考になります。
日々どのように過ごしていたか普段の日記はこちら。
これからも感謝の気持ちを忘れずに生きていきたいと思います。
それでは!